
日本は多死社会と言われて、年間150万人もが亡くなるそうです。それだけなくなる方が多い一方で、少子化により墓の担い手は減り、核家族化で家の帰属意識が薄くなっています。
弔いも、在り方が変わってくることでしょう。
人が故人への想いを抱き、弔いを求めるという事は変わりませんよね。ですが、弔いの形は経験・価値観が異なってきているために(情報が多すぎるからという側面もある気がしますが)、一人一人の想いに寄り添わなくてはいけないというのが、今求められることなのではないかと感じます。
お経だって、ハッキリ言ってほぼ何言ってるかわからないんだから、お盆にお今日あげてもらったからといって「だから何なんだ?」というのが感覚としてはあるのも当然です。でも、そんなのどうでもよくて合理性や効率などを超越した感覚的なものこそが、宗教の役割なんですよね。
本来、そこには宗教者と個人の信頼関係が必要なんだと私は思っています。
信頼出来る宗教者だったら、宗派なんてなんでもいいし、実家が何宗とかそんなのもはや関係ありません。祖先よりも、今生きている自分が何を信じるかの方が重要に決まっています。
「宗教者は選ばれる努力を」
と、世界宗教者平和会議日本委員会理事長の浄土宗住職がおっしゃっています。本当にそうだと思います。戒名が文字数で金額が変わるとか、教義に反するとか何とか、そういう説明不足な事もこれからは認められない社会になっていくのではないかと感じます。
キリスト教では、宗教者はお金に立ち入らず、教会の運営者が担う事になっているそうです。宗教者がお金にかかわらず、どんな教え・どんな人間性が選ばれるのかを考え、伝える努力をすることで、素晴らしい教えがより広まっていき、宗教が救いになればいいなぁと心から思います。
私は神社が好きだから、旅の目的は神社が中心です。シンプルかつ質素なあの空間は感動を生みます。でも仏教も好きなので寺社仏閣はよりどりみどり、派手な寺も嫌いじゃありません。
その時々で、求めるものが違うだけで様々な教義や宗教者と関わり、自らの在り方と向き合う場所を得ることは良い事だと思います。もちろんそれが弔い方につながっていけばいいのではないかと思っています。
今年のお盆は、そんなことを考えながら先祖代々の霊位に弔いの気持ちを向けて手を合わせてみました。そして、家族と楽しい時間を過ごすことでかけがえのない思い出を作ることが出来たことに感謝をしています。
PPIPは、理事長の和尚を含め、こういうぶっちゃけた宗教トークが出来ることが魅力です。
相続診断士
PPIP理事 名取確